愛善苑(大本)ではとくにお土のご恩を知れということが教えられています。たとえ猫の額ほどの土地でも遊ばすことはならん、草を生やすことはならん、とやかましく言われた。私どもが未決監から帰って来まして落ちついたのは今の農園(亀岡・中矢田農園)です。そのほかの建物は何もかも弾圧で破壊されてしまった。いやがおうでも土に立ち上がらなければならない、愛善苑はここから開けて来たのです。それは日本の現状と少しも違いません。
それから思いますと、日本の一番大切なことは、お土のご恩を感謝し増産をすることだと思います。日本はやはり農業国です。みんなその気持ちでお土を大切にしなければなりません。大切にするということはお土に感謝し、お土から一粒でも多く増産をすることであります。
(「愛善苑」昭和22年7月15日号)
お土を拝むような心になったら、なんぼでもご神徳がいただかれます。大地は国祖大神樣のおからだであるということに気がつき、もったいないという心になったら、なんぼでもお米でも、野菜でもなんでも穫らさしていただけますよ。
(「愛善苑」S22.11月号より)
人間がこの世に生まれて、夫婦、親子むつみあい、子孫が栄え、大きく言えば一つの国として隆盛を見ているのは何のおかげでありましょうか。日の恩、月の恩、土の恩によるところであります。この三つの恩によるよりほかに、人生というものはないと思います。これはわたくしがことあたらしげに言いませんでも、皆さんご承知でありましょう。
このご恩を、最も身近に感じていられるのは、お百姓さんたちだと思います。お百姓さんのことを昔から「おおみたから」と申しますが、この大御宝にとって、お日さま、お月さま、お土さまは、やはり大きな宝であり、親さまであります。蒔いた種を育ててくださるのはお土さまです。これに恵みを与えて、すくすくと伸びさせ、花を咲かせ、実を生らせてくださるのはお日さまです。また、水のことを司ってくださるのはお月さまです。都会に住む人たちにとっては、お月さまはただ美しいと見るだけのものかも知れませんが、土を耕す人たちにとっては、その満こと、欠くることが絶対の関係を持つのであります。これによって見ましても、どんなにそのご恩が深いかがわかると思います。
いまでも地方の純朴な人たちは、朝起きるとすぐに東に向かって合掌し、おあがりになるお日さまを拝んでいられます。これを笑うのが新しい時代の思想だそうでありますが、それは、お日さまの照っていてくださるのを当然なことだと思い、恩を恩と考えることのできない人たちのものでありまして、直接に苗を育てていただき、花を咲かせていただく人たちにとりましては、お日さまはただちに神さまであられます。拝むのは当然であり、拝まねばならないと考えます。わたくしは、人間がお日さま、お月さま、お土さまを拝む精神を失ったときに、不幸がやって来たのであると信じております。もう一度素直になって、みんなで拝む心になりましたら、世界に戦争というものはなくなり、人と人とが憎みあったり、疑いあったりすることがなく、本当の地上天国がまいると思います。苑主(出口王仁三郎聖師)の常々説かれるところも、ここにあるのです。
(「愛善新聞」昭和23年1月号)
あめつちの神の心を心とし今日の一日をむだに送らじ
これは、わたくしの詠みました歌でございますが、天地の神のみ心とは、とりもなおさず日地月のみ心であります。この心を持たれるお百姓さんのことが、いつかの「愛善苑」誌(当時の大本教団機関誌)にも出ておりましたように記憶いたします。土は耕すのではない、耕させていただくのである。そう信じて、お百姓さんは朝の田や畑へ足を踏み入れるとき、かしわ手を打ち、神さまを拝む心でお土さまを拝み、それから仕事にかかられる。その心が大地に通じて、その人の作っていられる田畑は、ほかの田畑よりもずっと出来がよいということでございました。本当に、聞いただけでもうれしく、ありがたいことと思います。
拝む心には、素直さがあり、おそれ、敬い、尊ぶ心があります。この心は、耕す土に行き届きまして、ここには肥料が足りないとか、ここには何を蒔かねばならないとか、わかるのでありましょう。また、このお土には少し負担をかけすぎている、もっと深く掘ってみねばいけない、というようなこともわかるのであります。そういたしますと、土の心と人の心とがぴったりと一致して、おたがいにわかり合い、立派な作物ができるのであります。
潮の満つること、退くことは、お月さまによってなされるのでありまして、この干満が人間の生死に直接の関係があるのを、皆さまもご存じであろうと思いますが、このことは、ただ海に起こる現象であるだけでなく、大自然の全体に及んでいるのでございます。そして、人間の生活に直接必要な水に関係するのでありますが、耕すために、水がなければどうすることもできません。お日さまのご恩によって木も、草も育ち、茂り、稔るものではありましても、それが過ぎますと干ばつというものがまいります。そのようにならぬよう、適度に雨を降らせていただく、川の水をひくことができる、霧が降りて田畑のものをうるおす、これらのはたらきは、お日さまとお月さまのなされるところであります。それは自然の現象である。拝まなくても自然にそうなるようにできているという考え方が、いまの人々の頭にはあるように見えますが、それは心得ちがいでございます。その証拠には、拝む人と拝まない人との田畑の成績が違っているのであります。
(「愛善新聞」昭和23年1月号)
この土が瓦となりて雨露をしのぐは神のめぐみなりけり
これも私の歌でございます。土のご恩、神さまが人間に土を与えて下さったご恩を申したのであります。
恩に馴れて、人間はお土さまを何心なく足で踏んでいる。これは親の恩に馴れて恩を思わぬようなものですが、これを瓦に焼いて屋根に乗せ、頭の上にいただいたとき、ご恩はよくわかるのであります。瓦の一枚、それは土でできて、そのおかげで雨にも雪にもあたらないのであります。これを思えば、土のご恩を受けているのは耕す人たちばかりではございません。わたくしたちの、日々使わせていただいている茶碗、土びん、湯飲み、その他さまざまのものは、多く土で作られております。そして、生命をつなぐ食べ物はほとんどお土さまからいただいたものであります。
耕す方々が、お土さまを拝み、祈って作られるのでありましたならば、これをいただく人たちも、お日さま、お月さま、お土さまのご恩を拝み、お礼を申し上げていただくべきだと思います。
(「愛善新聞」昭和23年1月号)