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愛善みずほ会創立75周年

愛善みずほ会創立70周年に寄せて-03

〝みろくの世〟の姿「天産物自給経済」を目指して

■ 「農は天下の大本〈たいほん〉」

 一方、もうお一方〈ひとかた〉の大本の教祖・出口王仁三郎聖師も農と深い関わりがある。

 聖師の生家・上田家(亀岡市曽我部町穴太〈あなお〉)は、かつてはかなり裕福な家庭だったが、聖師が明治4年(1871)7月12日に聖誕されたころには、家屋の壁は壊れ、床〈ゆか〉も朽ちて落ちるほどの貧しい小作農になっていた。そのため長男であった聖師は、幼少のころから田畑に出て、家計を助けておられた。

 その後、聖師は明治32年、出口なお開祖の招きを受けられて大本入り。翌年の正月に出口すみこ二代教主と結婚。明治の末期から、機関誌や新聞による文書宣教を開始し、「農は天下の大本〈たいほん〉」と主張され、日本農業の振興を唱導された。聖師はまた、「農業は、日本国家の大本〈たいほん〉と遠き神代より定まりており」ともおっしゃり、とりわけ、「天産物自給経済」は〝みろくの世〟の経済のあり方であるとして、その世界的実現を訴えられている。

 聖師のいう「天産物自給経済」とは、その土地ごとに天から与えられている産物によって、自ら支給し、自ら生活すること。今日でいえば「地産地消」という言葉がこれに近いと思われる。聖師はこの「天産物自給経済」について、日本に限らず広く世界にも応用しなければならない、衣食住の根本にかかわる理想的な姿であるとも述べられている。さらにまた、この経済が地上に実現しない限り、深刻な農業問題、経済問題は解決しない、とまでおっしゃっている。

 さて、昭和時代に入ると、聖師は亀岡市内の中矢田農園を入手し(昭和2年)、荒れ地を開墾して「大本理想郷社農園」を開かれている。当時、聖師は、国内外への宣教をはじめ、芸術活動などを含めて、極めて多忙な日常であったにもかかわらず、自ら牛をひかれて耕作もされている。さらに外に向かっては、水稲優良品種の育成や陸稲栽培法の奨励・普及に努められるなど、日本の食糧自給に資するための具体的活動を全国規模で展開された。