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愛善みずほ会創立75周年

愛善みずほ会創立70周年に寄せて-08

〝みろくの世〟の姿「天産物自給経済」を目指して

■ 「農こそは、文化の母胎」

 また三代教主は、昭和31年4月、『おほもと』誌上で、次の文章を発表されている。
 「私は日本の立直しは、どうしても――農民を大切にすること――からはじまらなければウソだと思っているのです。(中略)〝食〟というものが私たちの人生にとつて、人間社会にとってどれだけ重要な地位にあるかということは、誰でもちょっと考えてみればわかることでありながら、実際には〝食〟について根本的なことがらがあまり考えられていないのではないでしょうか。ことに食物をつくる〝農〟というものは、この現実において、何に先行さしても考えるべきことがらでありましょう。
 政治は、百姓を大切にしてこそ、ほんとうの正しい政治が行われるのではないでしょうか。農を中心にしてこそ、この国の経済も文化も本当に立直るものであることを私はかたく信じるものであります。(中略)
 ――農こそは、文化の母胎である――と私は信ずるのであります。
 幸い、私の家は先祖代々の百姓であり、私もこれで20年近く、といいましてもこのごろは田植えに出るくらいでといわれるかも知れませんが、ずっと百姓の真似ごとをつづけてきています。私の娘も息子も一応は肥〈こえ〉汲〈く〉みもさしてもらってきましたが、人間はある期間は何らかの方法で土に親しみ、農を体験さしていただくことによって社会の底深いなりたちというものを少しは感じることができ、それによって私たちの生涯を尊いものとして、生活の上に文化の上に浮き上ったものでない地についたものを求めるようになることを信ずるのであります。(中略)
 ことに、政治家とか、宗教家とか、この国の文化の指導的な立場に立つ人々には、農の体験は、欠くべからざるものとさえ思っております。(中略)
 やはり、本当の文化は、農を母胎としてこそ産み出すことができるのであると私は世の識者に訴えたいのです。これは祖母(出口なお開祖)が示し父(出口王仁三郎聖師)が叫んだところのものでありますが、私もよくよくいろいろのことを深く考えた上で、その底力のあるお示しを信念としています」(「おほもと」昭和31年創刊号、「私の手帖」)

 では、そのころの日本はどうであったのか。
 昭和30年以降、日本は食糧不足を脱し、高度経済成長への道を進み、工業化政策が進められていた。労働人口も農業から工業分野へと流れていった。同時に農業界では、先述したように、化学肥料の量産が推進され、その使用量も急増していった。農業は〝近代化〟され、化学肥料一辺倒の〝収奪農業〟を謳歌〈おうか〉するようになる。しかしそのために〝地力〟はおのずと低下の一途をたどり、土壌の生態系が悪変し、病虫害が多発。その病虫害を防止するためにと、農薬の開発と乱用という悪循環に陥り始めた。なによりも、こうした一連の流れの中で、土を単なるモノ同様に見るとともに、化学肥料を盲信し、絶対視するような農業科学のあり方が、人々の心に与えた悪影響は決して小さくはない。
 さらに、日本米作の衰退に拍車をかけたのは昭和35年、当時の池田内閣による「大農化方式」の提唱だった。経済の高度成長政策に沿ったこの方針は、稲作よりも現金収入の多い畜産等を促し、結果として全国的に〝米作悲観論〟が生まれた。そのため希望を失った農家青年たちの離農が激増し、農村は疲弊へと向かう。また、稲作に見切りをつけて、畜産、養鶏、果樹にのりかえる農家も次々に現れていった。
 昭和36年6月6日、農業基本法が成立。これは貿易自由化を求める財界からの圧力と、所得格差是正を求める農民団体からの圧力によって制定された法律です。現代にも続く農政の、いわば〝出発点〟となった。
 この間、愛善みずほ会は〝人づくり、土づくり、米づくり〟を活動目標に掲げて、地道な努力を重ねていたものの、試行錯誤を続けながら、厳しい状況に置かれざるを得なかった。会員数の減少傾向はとどまらなかった。