toggle
愛善みずほ会創立73周年

愛善みずほ会創立70周年に寄せて-07

〝みろくの世〟の姿「天産物自給経済」を目指して

■ 三代教主と竹田での〝農の暮らし〟

 昭和27年(1952)3月31日、聖師亡きあとの大本教団を力強く牽引された出口すみこ二代教主(愛善みずほ会初代総裁)がご昇天になった。第二次大本事件では唯一の女性被告人として6年4カ月もの長い期間を、狭い牢〈ひとや〉で過ごされた二代教主だった。が、そうした苦労の陰は微塵〈みじん〉も見せられず、むしろ明るく優しく大らかで、すべての人々を温かく包み込むようなお人柄は〝大地の母〟と慕われた。享年69歳2カ月のご昇天であった。
 翌4月1日、大本愛善苑は教団名を再び「大本」と改め、出口直日三代教主が大本の道統をご継承になり、大本教主としてご就任にります。同時に、愛善みずほ会の二代総裁としてお立ちになった。
 三代教主は、第二次大本事件中、事件解決に向けての活動の中心となってご苦労されたが、その解決のめどがたった(※)昭和18年6月、兵庫県朝来市にある大本竹田別院にご家族とともに転居。昭和26年まで、ひたすら農に励む日々を過ごされている。

 三代教主は竹田でお暮らしになった日々を、次のように回想されている。
 「当時(昭和18年)の日本は国を挙げて軍国主義に覆われ、個人の生活まで戦時体制の規格にはめられていました。しかも聖師様、二代様はその前年に未決から出ておられましたが、世間にはまだ大本が邪教であり国賊であるという印象が濃厚であったころでございます。敗戦に至ってもその誤解はとけず、但馬〈たじま〉の山間の小さな町にも平安はなく、食糧難、生活難の上に、日出麿(出口日出麿大本三代教主補)の、事件による後遺症が一般に理解されなかったことも加えて、私ども、成長ざかりで傷つき易〈やす〉い年ごろの子供たちは勿論〈もちろん〉、いろいろな形で私どもを助けようとして下さった信者さんたちも、まことに辛い思いを致しました。
 竹田で、私は農のくらしに徹しようと覚悟しておりました。ひたすらお土にすがって生きたいと、荒々しい百姓の労働に身を挺しました。今にして思えば、本気で生涯土を耕してくらそうとしたこの時代がありましたために、それまで、もひとつ実感出来なかった、祖母(出口なお開祖)や父母(出口王仁三郎聖師・出口すみこ二代教主)のご苦労、また農民のよろこびやかなしみを体得させていただけたように思います」(『竹田別院五十年誌』「竹田別院五十年誌によせて」)

(※)第二次大本事件は戦中の昭和17年7月31日、第二審で治安維持法違反の無罪判決が下り、同年8月7日、聖師・二代教主ご夫妻らは6年余りの未決拘留から解放され、亀岡・中矢田農園へとお帰りになる。