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愛善みずほ会創立75周年

愛善みずほ会創立70周年に寄せて-06

〝みろくの世〟の姿「天産物自給経済」を目指して

■ 化学肥料の大量流入による農業の変貌

 しかし愛善みずほ会活動は、昭和25年(1950)6月をピーク(地区事務所28カ所、支部3,002カ所、正会員32,600人、準会員を加えると4万人余)として、しだいに陰りを見せ始める。その主な原因は、黒沢式稲作法が暖地には不適とされたことや、農家の窮乏とともに、兼業や離農が目立ち始めたことにあった。会員数は徐々に減少し、昭和27年6月までに正会員数は2万人減の12,700人になった。
 特にこのころの状況で注目すべきは、日本の農業社会が大きく変貌したことであろう。そのきっかけは化学肥料の大量流入だった。以前は軍事用として使用されていた重化学工業技術が、戦後は化学肥料の生産に転用されたため、多量に出回る化学肥料が相対的に安価となり、一般農家も入手しやすくなったのである。
 しかし当初こそ化学肥料の多用によって増産志向が高まり、戦中戦後の農作物の減産問題は表面上は解決へと向かったが、その半面、〝化学肥料万能思想〟がめばえたために、農家は手間のかかる堆肥〈たいひ〉づくりや高価な有機肥料を使用しての〝土づくり〟からは急速に離れ、化学肥料ばかりに頼って増収を図るようになっていった。
 こうした世の中の風潮が、当時の愛善みずほ会活動にも影響を与えたことは否めない。そのとき大本の農業運動も大きな曲がり角にさしかかっていた。