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愛善みずほ会創立73周年

愛善みずほ会創立70周年に寄せて-05

〝みろくの世〟の姿「天産物自給経済」を目指して

■ 二代教主と「愛善みずほ会」

 特にこの「愛善みずほ会」は、出口すみこ二代教主のかねてからの強い気持ちが実現したものである。

 創立前年の昭和22年7月、二代教主は本部道場月次祭(亀岡市天恩郷)で、次のようにお話しになっている。
 「愛善苑(大本)ではとくにお土のご恩を知れということが教えられています。たとえ猫の額〈ひたい〉ほどの土地でも遊ばすことはならん、草を生〈は〉やすことはならん、とやかましく言われた。私どもが未決監から帰って来まして落ちついたのは今の農園(亀岡・中矢田農園)です。そのほかの建物は何もかも弾圧で破壊されてしまった。いやがおうでも土に立ち上がらなければならない、愛善苑はここから開けて来たのです。それは日本の現状と少しも違いません。
 それから思いますと、日本の一番大切なことは、お土のご恩を感謝し増産をすることだと思います。日本はやはり農業国です。みんなその気持ちでお土を大切にしなければなりません。大切にするということはお土に感謝し、お土から一粒でも多く増産をすることであります」(「愛善苑」昭和22年7月15日号)

 そのころの聖師は、昭和21年8月に体調を崩されてからご静養を続けられていたが、昭和23年1月19日、天恩郷瑞祥館を終〈つい〉のお館としてご昇天になった(享年満77歳6カ月)。

 聖師のご本葬は2月2日、綾部梅松苑の彰徳殿内で行われた。天王平〈てんのうだいら〉・奥津城〈おくつき〉でのご埋葬後、火継ぎの神事が厳修され、二代教主が大本の道統をご継承。その2日後の2月4日、節分大祭当日を期して二代目の苑主(大本教主)としてお立ちになった。

 そして苑主に就任された大祭当日の午前中に「愛善みずほ会発会式」が行われている。つまり、愛善みずほ会の創立は、二代教主にとっての初の事業であったと言っても過言ではない。
 愛善みずほ会活動のまさに原動力であった二代教主(愛善みずほ会初代総裁)は、お土を大切にすることや食物の大切さとありがたさを繰り返しお説きになり、特に農家の人には〝地力づくり〟に尽くして農産物の増産を図るようにと、ことあるごとにお勧めになった。

 本会の草創期における活動は、非常に盛んに進められた。黒沢式稲作法や酵素農法、甘藷・蔬菜〈そさい〉の栽培等を指導し、全国的に運動を展開。昭和23年11月12日には「社団法人」として国の認可を受け、発会以来わずか9カ月で会員数12,000人、支部数700を突破。各府県には地区事務所を設置し、遠隔地には地方事務所を置いて、地方組織の充実を図った。

 本会が発足した昭和23、24年当時はすでに愛善苑の全国組織も整っていたため、農家信徒はもとより、全国地方機関の役員信徒が全面的に協力し、講習会開催数は2年間で約2,000カ所、一会場で1,000人を超す聴衆を集める会場もあって、受講者数はのべ約50万人。その技術指導活動は当時の日本の食糧難を解決する上で、大きな貢献を果たしたことは間違いない。

 当時、食糧不足に悩んでいた日本において、昭和21年の米の生産高は600万㌧だったが、その10年後の昭和30年には1,000万㌧まで増産し、食糧自給率も全体で83%にまで達し、そのほとんどを国内自給でまかなえるまでに回復した。